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銭湯と海底と宇宙

半年前から銭湯通いを始めた。最寄り駅の近くに銭湯があって、仕事帰りや休日に気分転換として行っている。自宅にも風呂はあるけれど、非日常を手軽な料金で味わえるのが銭湯の良さである。今までは、同じ値段でできる暇潰しだと、漫画喫茶とか中古本屋に行っていたのだけれど、銭湯の存在感が幅を利かせている。言い換えると、コンテンツを消費することによって得られる快楽と、かたや身体を温めることによって得られる快楽だと、後者が勝ってきている。三大欲求と等しいぐらいまである。お湯に浸かりながら考えたのだが、体温に近い水に浸かるというのは、母親の胎内で一番最初に体験したことだから、そのように設定されているのだろうと思った。だから、哺乳類の多くは多分お湯に浸かっても平気だろうし、哺乳類以外だと深海の海底火山に住んでいるチューブワームぐらいなものである(適当)。だいたいお湯に浸かっている時は、のぼせないように気を使うか、考えるかぐらいしかやることがないのだ。眼鏡を外しているから視界はぼやぼやしているし。そういえば、話が海底から宇宙に飛ぶのだけれど、一光年というのは光が一年の間に進む距離だ。例えば、ある星が地球から一光年離れているとすると、僕たちが見ているのはその星の一年前の姿だということになり、この瞬間に星がふたつに割れたとしても一年後にしかそれを知ることができないのだ。この考え方を逆にしてみると、僕の一年前の姿をその星からは観測できるということになり、二十六光年の距離にある星だと僕は生まれたばかりだということになる。生物は後世に遺伝子を伝えるが、そもそも全ての物体から生じた光子はそのエネルギーがなくなるまでその情報を宇宙空間にも伝える。不思議である。そこまで考えたところでのぼせそうになったから、次は水風呂に切り替える。温かい湯船と冷たい水風呂を交互に繰り返すと、銭湯から出たあとでも手足の末端がじーんと暖かくて、半日ぐらい幸せな気分でいられる。そんなある冬の日曜日だった。