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逃げる≒飽きる/自殺という切り札/共有しない楽しさ/一人称「僕」/そして

旅の移動中に最近考えていることをメモに書き留めている。ただでさえ寒いのに、雪が降るところに来てしまった。

寒いとなんだか気分が一段階落ち込んで、生きものとして身体が死に近付いているような気さえする。人間は恒温動物だけれど、寒さに対する反応は変温動物さを残している。

まあ、このバスは蛇のお腹の中みたいに暖かいけれど。

冬は考える季節だ。考えて考えて、逃げたくて逃げられなくて、雪解けに咲く花のように、ただ春を待っている。冬は春の準備をするための、意味のある季節だ。そう思いたいものである。

幸せを感じる(た)瞬間

何かを作っていて熱中している時、日常のふとしたことが過去と結びつく時、だろうか。

それらの幸せは最近になって言葉にできるようになった。主に前者は自分の使いたいものを作る時に、後者は散歩によって思い付くことが多いように感じる。

両者に共通しているのは、自己完結していて自分だけで楽しめる点。また、それらを頭の中で反芻する時に幸せだなと感じる点だろうか。「ああ、そういえば、あの瞬間は幸せだったなあ」という感じだ。

逃げる≒飽きる

「飽きた」というのが僕の口癖のひとつだが、この一部には「逃げる」の意味が混じっていることに気付いた。

僕の少ない数一つの長所として、要領が良いということが挙げられる。スポーツ以外の何かについては、たぶん平均値よりも要領が良いと思っている。

しかし、勉強とかプログラミングとか大学の研究で特に強く思ったことなのだけれど、僕には、ある種のちょっとした発想、数学で例えるならば公式を自分で導ける能力のようなものが欠けている。

もちろん、それらは努力しないと習得できないのかもしれないけれど、自分が絶対に発想できないようなものを他人がさらっとこなしているのを見た時に、それらに感じていた熱が奪われるのを知る。そして、次第に飽きてしまうというか見切りを付けてしまう。そして次のものを試すために、熱中していたものから逃げる。高専と大学で学んだ分野が違うのもたぶんそういう背景があった。どちらも途中で挫折してしまった。

結局、僕にはそういう才能がないんだろう。

表層と内面

大学に編入して決めたことが、これまでの自分らしい振る舞いをやめるということだ。根暗な自分を卒業し、たくさんの人と会って、たくさんの人と共同でひとつのことを成し遂げる。それは想像した以上にうまくいった。

その結果、表層的な明るさとか社交性のようなものを身に付けたが、内面的なものはずっと変わらなかった。暗いままだし(これでも丸くなったほうだが)、自分の中で生み出したものを好み、自分自身で完結できるものを愛した。

東京に来て、もっと多くの人に会って自分がトランプのようにシャッフルされるのではと思ったが、内側の部分は変わらないままだ。

結果、ひとつわかったことだが、僕はどこでだって一人でも強く生きていけるだろうということだ。それはシンプルだけれど頼りになる。

憧れる生きかた

寂れたレンタルビデオ店でアルバイトをしていた時に、仲良くなったおじさんがいる。ちなみに、その時の僕の取り柄は返却されたアダルトビデオを素早く棚に戻すことだ。

おじさんはただの客で、世間話をしているうちに、僕は彼の所有するホームページを更新することになった。

おじさんは美術品を作って商売しているよくわからないひとだった。土に汚れたツナギを来て、エンジン音が怪しい軽トラックで思うままに行動している人だった。彼の話は、強い主観が含まれていたものの、とても機知に富んでおり面白かった。

僕はおじさんのホームページを更新し、そのお礼にお小遣いを貰ったり(レンタルビデオ店でバイトをするより割りが良かった)、農家さんから集めた野菜と港のコンクリートにへばりついている牡蠣を煮込んだ味噌鍋をご馳走になったり、彼の住んでいる山小屋に連れて行ってもらったりした。

他の具体的なことは語れないけれど、なんだかこういう人みたいになりたいなとぼんやりと思っている。「こういう人」という抽象を今は煮込んでいる最中だ。

旅の効用

今年は遠出と旅をすることが多かった。それらの旅は楽しむというよりかは、自分について考え直す機会だった。

今年の旅は、もちろんすべて一人旅だった。旅の前にひとつ決めたポイントには行くぐらいの緩いものである。泊まる場所は、当日現地で決めることが多く、移動手段は徒歩かレンタサイクルを選択することが多かった。

旅に行って自分の想像を遥かに超えるような特別に出会えることはほとんどない(経験の少ない子どもの頃は別だが)。唯一、想像を超えるのは、普段と違うところで考える自分のことについてだ。

旅ではよく自分の過去の行動を思い出すことが多い。その過程で当時の行動の理由を初めて言語化できるようになっていたり、結び付けるのが難しい経験が同じように抽象化されて結び付けられることに気付く。旅はそのような思考の整理といった効用がある(まあ、散歩でもだいたい同じだが)。

自殺という切り札

僕が生きていくにあたり自分に課した唯一のことは、「自殺をしない」ということだ。これが守れたら上々の人生だ。

高校生の頃、繰り返し読んだ本は「完全自殺マニュアル」だ。この本には自殺するための詳細な方法が載っている。実に簡単に死ねそうだった。別に死ぬために読んでいたわけではなくて、生きるとか死ぬとかそういう本を読みまくっていた時期に、多くの本で引用されてて気になったので購入した。

その本を読んで「自殺は人生における切り札」だと思った。しかし、その切り札を容易に切ることは駄目だ(僕の中では)。他の行為が楽になるための、持っていると安心するというような意味での切り札だ。

「清水の舞台から飛び降りる気分」が一番近い表現に思う。あるいは、遊戯王カードに例えるならば、なんとなく「冥府の使徒・ゴーズ」みたいな感じだ。手元にあると無条件で安心できる。

僕の人生では「自殺」ともうひとつの切り札がある。好きだった女の子から言われた「ずっと大丈夫だよ」という言葉だ。人によって切り札は違うと思うけれど、多ければ多いほど安心できる。

捨てる

ものを捨てるのが好きだ。持っていればなんとなく安心する状態を破壊して、なくても大丈夫な状態にしていくためにあれこれ考えるのが好きだ。

冷蔵庫とベッドと机と椅子と iMac を除けば、僕の所有物はダンボール7箱ぐらいに収まる(根野菜を中心にし、葉物は当日使えば、そろそろ冷蔵庫はいらないないと感じている)。持ち物を減らすことは、自分の知らないこだわりを捨てることに繋がる。

所有しているものをなくして、身に付けた技術/スキルをなくして、人脈をなくして、考えられるすべてをなくして、そこに残るのはなにか。ものを捨てるたびに考える。

共有しない楽しさ

人は自分が体験したものを話したがる。最たるものが Twitter/Facebook による、ここにいる、これを見てる、こんなことをしてる、といったリアルタイムな報告だ。共有することは、確かに気持ちがいいけれど、別の楽しみもあるよねと思う。

内緒で出掛ける。内緒で好きなことをする。そして話さずに自分のなかに仕舞っておく。それは結構楽しいことだ。とてもわくわくする。例えるならば、秘密基地を作っているようなものだろうか。もしくは、知られるとちょっと怒られるようなことをしている気分だ。

共有すると溶けてしまう角砂糖のような楽しみを持つことは、ひとりぼっち(人生はずっとひとりぼっちだ)で生きることを確立する上で大事な要素だろう。

一人称「僕」

自分のことを「僕」と呼んでいる。誰と会話する時もそうだし(特定の人間に対して使い分けすることはない)、頭の中で考える時もそうだ。何故「俺」にならなかったのか。

子どもの頃から親の仕事の関係で引越しをすることが多かった。中学生以降は、同じ土地だが、それまでは海外にいた頃もあったし、九州の色んな都市に住んだ。

僕はいつだって転校生だったから、求められる振る舞いをする必要があった。つまり、敵意はないですよと既に出来上がっている集団にアピールする必要があった。だから、調子に乗ってないということを表現するために、「僕」という一人称を選択した。「俺」だと調子に乗ってる要素がある、と思っている。

また、他の人と遊ばずに自分の中だけで楽しみを見つける能力は、そのような日々で培われたように思う。引越しがなければ、まったく異なる自分があっただろう、と思えるぐらいに子どもの頃の引越しは、大きな出来事だった。

そして

まあ、なんだかんだ生きているわけですが、他にもやりようがあるよなあと思う。「具体的に何?」と言われると困るけれど。思い出してみたら今までだって「なんか違うようなあ」「こうじゃないよなあ」と冬になると思っているから毎年のことなのだろう。六年前に書いたテキストにも似たようなことを書いてるし。というか、文体も比喩もだいたい同じで成長していないなあと思った。

結局。益にもならない、他人からしてみたら小さなことをうじうじ悩み続けるのが、僕なんだろう。でも、悩んだだけ生きていると実感できる。この世に生まれてよかったとは諸手を挙げて賛成できないけれど、考える機会があるのは悪いことではない気がしている。少なくとも、たぶん何も考えられない草木よりマシだろう。

自分について考えられないのだとしたら、それは生きている状態より、死んでいる状態に近いのでは。そういうのは嫌だとぼんやり思う。