退屈な僕の退屈

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もう一週間以上経っているが、先日、12月7日は24歳の誕生日だった。誕生日は、昔のことを反芻するいい機会だ。それで Evernote を何気なく遡っている時に、昔、運営していたテキストサイトの過去ログが詰まった .txt ファイルを発掘した。

4年前の2010年4月18日に、僕は次のようなテキストを残している。

暇になると、僕はなんで生きているんだろう、と脳裏に言葉が流れる。洗濯物も畳んだし、布団も干したし、掃除機もかけたし、家計簿も付けたし、LANケーブルを綺麗に這わせたし、自転車の空気も入れたし、ミステリー小説も読み終えたし、ギターも気が済むまで掻き鳴らしたし、ルービックキューブも六面揃えたし、視聴している今週のアニメとウェブラジオも見聞き終えたし、今日の分の英単語を覚えたし。「で?」と呟く。僕は次に何をするべきだろう。暇を潰す方法を考えるか?でも、それをし終えたときにまた「で?」と呟くだろう。

これは本当に深い問いで、僕は今もまだ「暇」と闘い続けており、問い続けている。ただ、暇という言葉は時間的な意味合いが強いので(例えば、暇が出来た、というのは時間が空いたということを指すように)、ここでは「暇」ではなくて「退屈」と置き換えよう。うん、ぴったりだ。

今もだけれど4年前の僕は、退屈であることに悩んでいた。充実していた大学生活を送っていたが、退屈だった。大学生の時期は、人生のどの時期よりも時間的な余裕さがあって自分の好きなことばかりしていたが「退屈だなあ」と思っていた。

当時の僕は、この退屈さは、自分が消費する人間でしかないからだと考えた。小説というある作者が書いた文化を消費した。ギターを弾いてる大学生という象徴を消費した。ルービックキューブという課題を消費した。暇を潰す行動のほとんどは、何か形のないもの(文化とか記号とか象徴とかイメージとか課題とか)を消費することによって成り立っている。だから、自分が消費される側になれば、この退屈さが取り除けると考えていた。

消費の反対は、作ることだ。僕が iPhone アプリを作ろうと思った動機は、思い出してみると退屈からの逃避だった。だが、結局は逃げられなかった。没頭している間は、退屈さを忘れているのだけれど、ふと息を付いた時に(人間は途中で休憩せざるを得ない)、「退屈だなあ」という気持ちが自分の中にただ「ある」。そして、アプリを世の中に送り出した後でさえ「退屈だなあ」という気持ちが、手のひらに付着した油分のように拭えないでいる。

この退屈さをなんとか誤魔化して、あれから4年間生きてきたのだけれど、4年前の僕が望んでいたものは終に手に入らなかったようだ。恋愛をしても、仕事をしても、遊びに行っても、どこか醒めている自分がいて、僕に「でも、退屈でしょ?」と唆す。本当にその通りだから困る。

退屈なのは僕かもしれないけれど。退屈な僕の、退屈との戦争はまだまだ続くようだ。