走ることについて語るときに僕の語ること
何故か走ることが続いている(週 2 程度だけれど、僕にとっては凄いことである)。
これは、この半年における大きな変化のうちのひとつだ。
しかし、僕は体育の授業が大嫌いだった。
体育の授業ほど呪いたいものはない
体育といえば、野球やサッカーといった集団スポーツである。
しかし、高く上がったフライボールは、僕の後方 5 メートルに落下するし、味方にパスしようと蹴ったボールは、まるで見当違いの方向に飛んでいった。練習しても周りの人たちのように上達せず、ますます僕のミスが目立つようになった。
僕がミスをするたびに、僕の評価は下がっていった。だから、僕はなるべくボールを触らないポジションで、迷惑をかけないようにとビクビクし、集団スポーツを呪いながら、体育の授業を過ごしていた。
卓球やテニスといった一対一で戦うスポーツも全然好きになれなかった。なによりも集団スポーツ以降、体育の授業が大嫌いだったし、人と競いあうことにまるで関心が持てなかった。
体育教師に怒られるからという理由で走るマラソンも大嫌いだった。
こういった理由で、僕は体育の授業が嫌いだった。せめて体育の授業では、個人がしたいスポーツを選択できるようにしてほしいものだとぶつぶつ呟いていた。
自転車での一人旅を通して思ったこと
以前、自転車で一泊二日の旅に出たことがある。荷台に寝袋をくくりつけて、パンク修理セットを用意し、福岡県北九州市から山口県にある角島に出かけた。往復で 100 キロ・メートルだと記憶している。
真夏のクソ暑い日だった。アスファルトの熱気と、横を走っていく自動車の排熱がそれに加わる。身体のすべての汗が流れていった。自動販売機が見えるたびに、スポーツ・ドリンクを購入し、一息で身体に流し込む。
僕は必死に足を回転させる。「何やってんだろ?」という疑問がぐるぐると僕の中を回る。汗でふやけた地図と自分の身体を頼りに、僕は知らない町と知らない港と知らない橋を通りすぎていく。
摂取したカロリーが自分のエンジンになっているという感覚。汗が吹いて塩の結晶が身体に纏わりつく感覚。坂道を全速力で駆けるときの感覚。紡ぎきれないほどの言葉や思考が溢れてくる感覚。
そして、角島のエメラルド・ブルーの海が開けていくときの感動。
そのような道中で僕は生きることの素早らしさを知った。また、自分の身体に挑戦する・自分の身体と戦うことの面白さを初めて知った。
このような感覚は、体育の授業ではまったく分からなかった。体育の授業は嫌いだけど、こういうのはいいなと思った。
「iPhone」と「Nike+ GPS」が走る気にさせてくれた
しかし、やっぱり身体を動かすのは、面倒なものだった。
たまに近所の川沿いを走ったりしたけれど、それは全然続かなかった。走るのが続くのは決まって、ホタルが川を優雅な光に染める季節だけだった。
けれど、何故僕は今走っているのか?
それは、iPhone と Nike+ GPS というアプリのおかげだ。
Nike+ GPS は、以前に無料でダウンロードできるキャンペーンがあった。その時に、ダウンロードしたアプリだ。
なんとなく走ってみるかという気になった。7 月の夜はとても気持よかったし、GPS 情報が残るという魅力があった。というよりも、iPhone の可能性を模索するためだけに走ったようなものだ。
僕は、動きやすい服装に着替え、イヤホンを耳にはめ、夜の住宅街を駆けた。
そしたら、走ることに思いの外、抵抗がないことに気づいた。
自分でもその理由はよく分からない。
たぶん、身体を動かす面倒さを、iPhone と Nike+ GPS が乗り越えてくれたんだと思っている。自分の身体を動かすことの面白さは、知っていたから。
あとは、走り終わったあとに自分を積み重ねていく満足感。
その満足感を目にするために、走り終わったあとのワークアウト情報のスクリーンショットを撮り、PictShare で Evernote に送信している。
PictShare - multiple photos/movies uploader 2.5.2(¥250)
そんな感じで僕は走ることを継続している。
走り続けている理由は、自分でもうまく説明できないし、だから、他人にうまく説明できるはずもない。
説明できないからこそ、僕はこの記事を書いた。
「何か」がこの記事を読んでくれた人に残ったらとても嬉しい。
以上が、「走ることについて語るときに僕の語ること」である。