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悲鳴の連鎖の上に立っている

これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。(中略)。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。(ウィンストン・チャーチル)

朝起きるたびに、布団の中と、見たことがない世界を冒険できる夢の中が快適だったことを思い出し、現実のぼんやりとした不安に打ちひしがれる。

夢の中では空も飛べるのに、また覚醒の引力に敗北し、地を這う意識ある 70 億の一人として生きねばならない。意識のあることのなんと辛いことか。意識のない虫けらのなんと幸福なことか。物心が付いたころから、その台詞を口で転がす。

最近読んだ 時間は存在しない という本によれば、物理学的に時間は存在せず、この世界は時間という物差しを使うよりは、単純な出来事や複雑な出来事が織りなすネットワークだと考えるほうが綺麗に解釈できるそうだ。

波は水分子の複雑な運動であり、それを形作る水分子は絶えず入れ替わる。生物は食べ物やタンパク質、遺伝子が演じる複雑な過程であり、化学反応や濃度勾配、浮気がちな電子のネットワークだと言える。

人間を始めとする複雑な神経ネットワークを獲得した生物は、これに意識の出来事が加わる。そして、意識があるということは、快楽だけではなく苦痛を感じるということだ。

思春期の頃からよく想像するのが、今まで生きてきた生物(特に複雑な神経ネットワークを持っている生物)が味わった快楽と苦痛の総量はどちらが多いのだろう、と。例えば、生物のほとんどは捕食動物に食い殺される死に方が一般的だし、人間は今でこそ食物連鎖のくびきから解かれているものの、人類は長い間、疫病、飢饉、戦争から逃げられなかった。

それらの状況がある程度改善された現代に生きていても、どんなまともな人でも死にたいとか、生まれてこなければ良かったと思う瞬間があるはずだ(意識が暇を持て余し、こういう思考をしていると思うけれど)。そういう苦しみを乗り越えなければならないと誰しも説くけれど、まず生が苦しみありきの時点で意識ある生物は不幸だと自分は思う。

親は生まれてくる子供の苦しみのことを真剣に考えてはくれない。想像だけれど、生殖の快楽だとか、お腹を痛めて親になりたいというエゴにより、子供を生む。親が子供に確実に与えられるものは、死と苦痛だ。生も愛もその後の不確実な享受物に過ぎない。それらを考えると、苦痛という感情の総量のほうが多い気がしてならない。

世界がただの出来事であったならどんなに良かっただろう。遠い国の不幸な出来事のように、ただぼんやりと眺められたらどんなに幸福だろうか。しかし、意識ある生物は出来事を解釈し、苦痛を味わわなければならない。意識がなければただの出来事が、意識があるから悲劇の物語になる。

それもこれも、意識=苦痛を減らす方向に自然選択できないのが原因だ。苦痛は生存に役立っているのだ、確実に。

本能的に蜘蛛や蛇を怖いと感じるのは、それらに襲われた過去の苦痛がどこかに残っているからだ(遺伝子に記憶は残らないはずなのに、どこにコードされているのだろう)。過去の苦痛をなかなか忘れられないのも物語の賜物である(そしてトラウマや PTSD を引き起こす)。なにより苦痛を感じなければ、生存に必要な器官を自分自身で損傷しかねないし、集団生活を送るために必要な相手の痛みを思いやる想像力が育まれない。

このように意識や苦痛が存在することは、人類の繁栄を考えれば、いまのところ遺伝子にとっては最適解のように見える。しかし、意識があるために、遺伝子の乗り物である我々は苦痛を味わう羽目になる。疫病にたかられ、飢餓に襲われ、戦いに破れ、死に蝕まれる。それはいつか終わる進化の成長痛のように思いたいが、たぶん最後の審判の日までなくならない。

意識ある生物は断末魔をあげる他の生物を殺し、その血肉をエネルギーと将来の悲鳴に換えてきた。どんな生物であれ、この悲鳴の連鎖の上に立っている。この意識ある生物への拷問は、数十億年後に太陽がなくなるまで続く。

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