掃除をすることは、人生を考えることに相似している
土曜日の朝に目が覚めた僕は、掃除を始めた。部屋の隅から隅までクイックルワイパーで水拭きをした。トイレとユニットバスをトイレクイックルで磨き上げた。こう文章に起こしてみると僕は花王のクイックルシリーズが好きなのかもしれない。その後、新宿に出て暇を潰し、夕方に新型の iMac(薄すぎる!)を受け取り、環境構築をしてその日は寝た。
日曜日は、朝から作りたいアプリに必要そうな部品を書いていた。iOS のバックグラウンド通知の 10 分間について理解を深めた。その後、土曜日に買い込んだ書籍を読んで(こう書くと高尚な感じがするがライトノベルである)、今、この文章を書いているわけだ。しかし、である。部屋に明かりをつけてよく見てみれば、昨日掃除したはずなのに、もう埃だったり、下の方の毛が落ちているわけである。陰毛である。どこに陰があるのか。それは僕のこころである。
O 型なのに神経質すぎる(笑)とよく言われる僕は、気になって掃除を始める。僕以上に専業主夫に向いている男性はいないと思うので、誰か貰ってください。後、料理の腕を磨いたら理想的だと思う。話がそれたが、掃除をしているうちに疑問がマグマのように湧き上がる。「何故、掃除しているのか」。それはたぶん衛生的ではないからだ。掃除しないまま放っておくと食べカスにゴキブリが群がるし(夏限定)、埃を吸い込むのは肺に良くない。さらに、生活も荒んでしまう気がする。
しかし、である。そもそも部屋を汚している張本人は、ほかならぬ僕なのである。僕が存在し、僕が呼吸し、僕が生活しているからこそ、埃が、剥がれ落ちた表皮が、抜けた毛が、床に溜まっていくのである。もしかして僕はこの部屋に要らない存在なのではないだろうか。鳥瞰しよう(説明しよう的なノリで)。僕が存在し、僕が呼吸し、僕が生活しているからこそ、地球は汚れるのである。僕は要らない子であった。母なる大地よ!
このように掃除をしながら考えていると僕の存在が希薄になっていく。ビッグバンで宇宙が生まれ、太陽系が生まれ、地球が生まれ、生命が生まれ、人間が生まれ、僕が生まれ、そんな僕は、自分で汚したものを自分で処理し、それを生きていくうちに何千回も繰り返すのである。嗚呼!なんだこれは!こんな悲しいことがあっていいのか!
そしてそんなことを考える僕は、飼っているくらげ(なんか元気ない)の海水を換えるのである。くらげが汚した水を飼い主である僕が換える。諸君、わたしは自分で自分の世話をしないくらげになりたい。