夏の、吹く風が心地よく感じる夜に
夏の、吹く風が心地よく感じる夜に、炭酸飲料を飲むのがたまらなく好きだ。生きている、という感じがする。長年過ごした北九州市では、開発されて味気なくなった公園から火力発電所の航空障害灯の明滅を眺めた。大学時代を過ごした豊橋市では、人気のないスーパーの自動販売機前の手すりに腰がけて、道路向かいのパチンコ店を眺めた。そして、今は渋谷区のとある公園のベンチにだらしなく座って、頭上に広がる広葉樹の展開する葉を眺めている。風が吹く度に背後に咲いている香り高い花が主張し、頭上で葉が擦れる優しい音がする。花の匂いは幾度となく嗅いだ記憶があるが、花の名前はしらない。花弁は白く分厚く、虫に好かれているのか黒ずんで汚れている。雄しべと雌しべを包むように、幾枚の花弁が円を描きながら巻かれている。左手には冷えたドクターペッパー缶があり、かすかにぱちぱちと炭酸の跳ねる振動が感じられる。
いつから夜が好きになったんだろうと思う。ロードバイクの後ろに寝袋を乗っけて、北九州市から山口県の角島に出掛けた頃からだろうか。飲んだ水分すべてが汗に変わり、摂取した食べ物のカロリーがそのまま自転車を漕ぐエネルギーに変換されているのを感じられるほど生々しい体験をした、その夜だった。本州の西端から角島を眺める展望台で、寝袋を広げて僕は炭酸を飲んでいた気がする。展望台からは海という闇が広がり、夜空には夏の大三角が浮かんでいた。車道を走る車の走行音と、周期的な波音と、寝忘れた蝉の鳴き声と、夏の虫の恋愛歌。それと炭酸の弾ける音。
なにかから逃げるために自転車を走らせてきた。その時は自分探しを本気で信じていたように思う。ほんとうの自分はどこかにあって、それを探すのだと(今もちょっとだけそう思っている)。だけれど、結局は自分なんてここにしかない。なにかから逃げていたというのは、自分からだろう。夢も目標も希望も不幸も青春も、そういうのはまとめて自分から逃げるための口実だ。自分はここにいる。それを許すという行為に、少しだけ諦めというスパイスを混ぜる。なんの理由もなく意味もなく生まれてきたふわふわとした存在である自分が、状況はちっとも変わらないけれど、それを許すという手続きを終えた、大切な夜だった。
だから、数年経った現在にも、夏の、吹く風が心地よく感じる夜に、炭酸飲料を飲みながら、昔のことを考える。あの時の僕は、今の僕とどれぐらい変わっているのか。そうだ、身体を構成する原子はどれぐらい入れ替わったのか。僕を構成した原子とこれから僕を構成する原子。遺伝情報をタンパク質に翻訳するリボソームが稼働し続ける限り、それは変動し続ける。生物が生き長らえるために組み替えられる遺伝子。遺伝子の乗り物としての、体。体は、最適化のために、乗り捨てられる。生物なんて遺伝子の最適化のために生きているようなものか。あの過ぎていった夏の日は、こういう視点で生きるということを捉えられなかったから、あの時から少しは成長しているかもしれない、と思った。