結跏趺坐
去年の冬から頻繁に心が荒れている。物心が付いてから、季節が変わるたびに二週間はそういう期間があるけれど、これは最長記録ではないか。心が荒れていて雑音が煩い時は、大切に編んだ生きるための理由(あるいは、死なないための工夫)が、誰かの手によって解かれようとしているのを感じる。そんな時、足を組んで座るようになった。座禅のような高尚な行為ではなく、我流の何かである。足を組んで姿勢を固定し、呼吸を浅く整えていると気分が落ち着く。
足は、両足首を太ももにのせる結跏趺坐と呼ばれる組み方をしている。この結跏趺坐は、膝や足首の柔軟性が必要だから、最初からできる人は少ないように思う。僕ができるのは、中学時代に結跏趺坐ができる友だちの真似をしていたからだ。この結跏趺坐ができない場合、あぐらをかくか、片足首だけを太ももにのせる半跏趺坐になるが、これだと骨盤と片膝しか地面に触れないため不安定だしすぐに疲れる。結跏趺坐は、骨盤と右膝と左膝の三点が姿勢を安定してくれるため長時間の姿勢維持が簡単である。
座り始めた最初の頃は、呼吸を落ち着けるのが難しくて、意識すればするほど呼吸が苦しくなった。心の臓が血液を送り出す音が煩かった。けれど三ヶ月もすると、座って一分経てば呼吸は浅く落ち着いた状態になり、また、姿勢の維持を意識することがなくなった。言語化するのが難しいが、骨格だけで座るための力の抜き方のようなものを覚えたからだろう。座る間、何も考えない状態を目指しているが、これはなかなか大変だから、最近は諦めて遊ばせている。
ただ座るという、人生を積極的に無駄にする行為は、頻繁に荒れる僕の心を整える大切な道具になりつつある。