rakuishi.com

現実という仮想空間に生きる

長時間遊んだゲームでも「なんかいいや」とデータを消してしまうことがある。いままでこの現象を言葉にするときに飽きたという語彙しか持たなかったのだけれど、認知が剥がれたと言い表せるのかもしれないとサピエンス全史の前半を読んで思った。仮想空間上にあるゲームに違和感を感じ、信じられなくなる。信じられなくなった途端に、気持ちが萎える。この感覚は、僕にとって普通に生きていても頻繁に遭遇する。

話は変わるが、人間は 150 人までとなら親密な関係を保つことができる。この数字は軍隊の小隊、古代民族の構成単位、古くからある村などあらゆる地域や歴史に見られる。これは脳のどこかの厚さと関係していて、霊長類では明確な相関関係が見られる。ここまでは事前知識として知っていたのだけれど、ここから先の国家の単位となるとどのように関係をまとめるのか想像が難しくなる。

著者によれば認知がキーワードだと述べている。分かりやすくいえば、宗教や法律などは人間の想像力の上にあり、教育されてそれらを後天的に身につける。だから、僕たちが生きているこの空間はすでに拡張現実だと言える。人を殺してはならない。お金は共通的な単位。隣人とは仲良くしましょう。言われてみれば、拡張現実ゴーグルを装着するまでもない。すでにバーチャルだ。だからこれはすごく脆い。僕たちの世界は、僕たちの想像力に立脚しているからだ。「どうして人を殺してはいけないんですか?」という問いには、「これが我々の認知だからです」としか答えようがない。認知の拠り所によって、答えはさまざまに変わるし、時代や場所によっては正しいことが異なる。

蟻や蜂などの場合、人間よりも遥かに多い構成員とうまくやれるが、あれはゲノムにそのルールが組み込まれている。そして、そのルールに違和感を持つことはないはずだ。

だが、人間の場合、ゲノムにそのルールが刻まれていないものの、そういったルールや認知を叩き込む余地が脳に十分にあり、逆にまたその認知を疑う余地もある。だから、なんか虚しいとか、生きるのに萎えてしまったりする(僕だけか?)。生物はもっと気ままなはずなのに、人間は認知という虚構に自ら閉じこもり、自らをホモ・サピエンス(賢い人間の意味)と呼んでいる。賢いのだか、臆病なのか。なんと皮肉な物語を重ねていくのだろう。

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福