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神聖さを失い続けている

高専生のとき、今抱えている人生のもやもやは「生物学」を勉強すれば見方が変わり、何かしらの回答を見つけることができるのではないかと思ったことがある。図書館に置かれていた哲学書のように、人生においてちっとも重要ではないことを他人の言葉を引用して否定しあうようなことではなく、あるいは宗教のように、その時代のおっさんが考えたルールに盲目的に従うのでもなく、自分の起源や構造を科学を通して理解すれば、もっと本能にダイレクトに響く何かが得られるのだと。

今それに適切な言葉を送るならば、神を信じることができない僕は、宗教を信仰することによって得られるある種の依存を、科学を勉強・研究することによって、依存先を見つけられるのではないかと思ったわけだ。

そういう理由から、大学は生物について学べる学部を選んだ。しかし、自分の体の成り立ちの解像度が上がってくるにつれて、ニヒルさを感じる自分がいた。微塵にしたバクテリアを DNA 増幅し、いろいろな処理を行い DNA シーケンサーにかけて、その DNA 配列がコンピュータの画面上に表示されたとき。体はコードでできていた!という純粋な知的好奇心を満たす喜びと、結局僕たちはコードでしかないのだなという事実。

結局、僕たちは非物質的な魂ではなく、物質的な作用の結果にある。いや、非物質的な魂はあるのだ!と広角泡を飛ばして叫びたい気持ちもある。何かよくわからんけれど高尚な何やかやによって僕たちは突き動かされているのだと叫びたい。しかし、魂が存在するとしても、かつて科学が魂の質量をはかろうとしたように、今後、センサ技術が発達することで魂と呼べるものの観測に成功し、魂は非物質的なものから物質的なものに降格されるだけだろう。

魂だけではなく、感情だって出来事をラベリングし簡略的に理解するための認知プロセスだったり、意識だって複雑な神経ネットワークの発火によって生み出される一種の心的汚染物質である(ホモ・デウス より)。僕たちの体は、まだ解明できないことで満ちみちているが、日々その神聖さはーセメントを産出するために切り崩される山のようにー失い続けている。

確かに、切り崩される山を呆然と見ている気持ちだけれど、足もとに転がっている石ころの形や色が綺麗だなと思うこともあって、結局は、そういう素直なままを受けとっていくしかないのかなと思っている。受け取るのも物質的な自分だけれど、その偶然さの采配を味わえるのもまた、物質的な自分なのだ。