内向的な私の SINK ⇄ FLOAT
亀のように内向的な私であるが、たまには息を吸うために浮上して外交的に振る舞うことがある(ある亀は肛門呼吸を行え、浮上する必要さえないそうだが、それは置いておく)。
外交的な私は初めて会った人と友好的な時間を過ごすため、即興で組んだ愉快な会話デッキからカードをドローし、愉快かはともかく自分の人となりを説明することがある。あなたの瞳に映る私は外交的に見えているかもしれませんが、その実、亀のように内向的なんですよ、と。そんな自分語りは、私自身を見直す機会になる。
思い出してみれば、私は自分から友達を誘って遊ぶということをしたことがない子供だった。友達から誘われればついていくものの、自分から誘うことは記憶している限りないのではないかと思う。理由を探ってみるにいくつか要因が考えられる。
まず、親の仕事の関係で幼稚園から小学校にかけて海外におり、一人遊びで世界が完結していたことが挙げられる。幼稚園では英語が使われていて、意思疎通ができない私は部屋の片隅でレゴブロックを組み上げていた記憶しかない。小学校では日本語が使われていたが、送迎バスが必要な学校だったため、近所に同年代の友だちが一人しかいなくて、結局一人の世界に閉じこもる傾向が続いた。ゲームやアニメ、レゴブロックにインラインスケートが長年私の友だった。
これは長年定住して地元と呼べる場所ができた後、ある程度は改善されたが、ついぞ自分から他人を巻き込んで遊ぶという行為がなかった。もちろん誘われて一人では出来ないゲームやカードゲームをするのについていくことは多々あった。が、どうも自分から誘う必要がなかったのは、幼稚園時分に鍛えられた自分一人で遊んで得られる幸福感と、友達と遊んで得られる幸福感を比較したときに大きな違いがないのが原因だろう。
たぶん、寂しさや人恋しさという感情が人並みに自分にあれば、友達と遊ぶインセンティブを与えてくれるだろうし、パートナーを求める衝動もそこが大きいのではないのだろうか。ないことはないが、一人の人と長期的な関係を築けるような強度がなく、卒業するたび、退社するたびに、基本的には人間関係が途絶えるのが常である(もちろん SNS は緩い関係が続くため、SNS がない時代に比べて途絶えにくいとは思うが)。
定量的な値になおせば、世間一般の人と比較して、短期的な関係を求めるドーパミンは 2/3 程度、長期的な関係を求めるオキシトシンは 1/3 程度だろうか。
かつては、この自分の人間関係に対する劣等感を解決するため、このままじゃ駄目だという焦りから、大学では違う輪に入ったり、今までとは違う行動を試してみたりしたが、やはりニュートラルな自分との乖離を感じた。この焦りは数年おきに沈降したり浮上したりし、まさにこの半年は初対面の人と会う機会を増やしたが、解決する見込みはなく、即興の一対一の会話を回すことばかり、一人で生きていくことばかり、上達していく。
そう、最近になってわかってきたことだが、即興の一対一の人間関係は比較的得意だが、複数人に交じるのは壮絶に苦手だ。例えば、複数人との飲み会では 2 時間で駄目になり、帰ってベッドに倒れ込むときには人間の形を失っている。しばらくは自分のにおいの染み付いた布団にこもり、寝ないと回復しないたぐいの疲労が溜まっている。
自己分析によれば、複数人ゆえの上辺だけの特に興味の持てない会話に終始したり、騒々しい居酒屋で会話があると半分ぐらい聞き取れず想像で話を補う癖があったり、彼らの自分の介在しない人間関係を想像することの脳負荷の大きさなどがその原因だと睨んでいる。
ダンバー数の法則によれば、人間はサルに比べて大脳新皮質が大きいから複数人とうまいコミュニティを築けるらしいが、自分のそれはたぶんサル並みなのだろう。例によって一人、動物園で見るサル山の、コミュニティから弾かれているサルに多大なシンパシィを感じる(が、数分観察していると他のサルに毛づくろいする心の広さは認められるため、それを見て落ち込む私がいる)。
私は一人で生きることにこだわってはいないが、沈むべき場所はどうせここだろうなという諦めがある。が、やはり世間一般の普通に対する焦がれはある。普通の人が熟すことを、私にも普通に熟せることを何かにアピールしたいのだ。だからたまに自分のコンフォートゾーンを離れて挑戦してみたりする。そのような浮き沈みを繰り返しながら藻掻いている……。
ちなみにタイトルの「SINK ⇄ FLOAT」は、楠木ともりさんのツアータイトルから取りました。福岡公演に参加してきましたが、とても良かったです。