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祈りの役に立たなさ

帰省するたびに祖母はあなたのためを思って祈っているのだからと言う。孫に渡すお年玉よりも桁の異なるお金を教会にお布施している熱心な祖母が言うのだから間違いないのだろう。

そのいくらかでも貰えれば、あなたの孫は即物的にハッピーになれますよとは言えず、物分りのいい孫を演じるために「ありがとう」と答えるものの、心のもやもやが溜まっていくばかりであった。

その感情を明確に言語化できたのは、「利己的な遺伝子」を書いたリチャード・ドーキンスの「神は妄想である」で、ある実験が紹介されていたのを読んでからだ。

その実験は心臓病患者へのキリスト教徒からの祈りの有無によって、心臓病の治療に効果があるかどうかというものだ。祈り手は遠隔から患者の名前を毎日読み上げ、治りますようにと眉を寄せる(と想像しているが、もっと複雑な祈りの手順があるのかもしれない)。まあ、つまり敬虔な教徒からの祈りが神に届くのか、という実験だ。

実験は 3 つのグループに対して行われた。祈られているグループ、祈られていないグループ、そして祈られていることを知らされているグループだ。

実験後の患者の治療の状態は、最初の 2 グループは特に差がなかった。無神論者から見れば当たり前だ。祈りなんて物理的な効果はないんだし、何も影響を及ぼすはずがない。病室に大道芸人でも派遣して、病人を思いっきり笑わせるほうが健康になろうものだ。心臓病患者を笑わせるのが健康に良いかはさておき。

ちなみに、神学者はこれに対して、祈りが足りないだとか、神は時に我々に勇気と忍耐を示す機会を提供してくれるからだと説明していた。まあ、全知全能の神ともなると世界中いや宇宙中のフラグ管理に忙しいから仕方ない面はある。

話を戻して、一方、自分たちが祈られていることを知っているグループは有意に治療の状態が悪かった。キリスト教徒の祈りが足りなかったのか? いや、患者は自分たちが祈られていることを知らされて「自分の病気はそんなに悪いのか」とプレッシャーを感じたのだった。それが治療に悪影響したのだと、その本の中では考察されていた。

これを読んだときに、心が晴れる気がした。祈りは、祈られる側に適切な素質がなければネガティブに働いてしまうものであり、祈り手の自己満足的行為に近いものなのではないか。

確かに世の中に清廉潔白な祈りがないとまでは否定できない。内省のための祈りにはマインドフルネス的な効果はあるだろうが、祈っていますと相手に伝える行為には汚さが含まれている気がする。相手の関心を買うためだったり、寄付金を得るためだったり、また、祈りのついでに弱った人に説教を説くのはさぞかし快感であろう。

そもそも祈られている人に不幸があった場合、祈り手側も気に病むのではないか。自分の祈りが足りなかったのではないかと。祈りが足りないというのが、よく分からないが。そう考えると、お互いに幸せになれるシステムにも見えないし、祈りという効果計測ができないものに無尽蔵に心的、金銭的リソースを食われる行為にしか思えない。

だから千の祈りよりも、別れ際の気をつけてぐらいが丁度良い塩梅だろう。祈りよりも具体的だし、帰り道、車に引かれないようにしなきゃな、ぐらいの効果はあるものだ。

神は妄想である―宗教との決別神は妄想である―宗教との決別