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読書の副作用

大きなガラス窓の外から、軟球テニスのぱこんと打ち返す音が響く。図書館の横にはテニスコートがあり、放課後になると部活動に励む生徒が練習を始める。時折途切れるラリーの音を BGM に、文庫本を読み漁るのが高専時代の習慣だった。デスクライトの光量が弱く、日が暮れるのが早い冬には難儀したことを覚えている。

図書館の文庫本の大抵は表紙がなく個性を失っていた。文庫本のデザインは出版社ごとに異なっているが、日に焼けた文庫本はどれも同じような肌触りとにおいを備えていた。新潮社文庫の紐しおりがあるか、ないかぐらいだ。そんな個性の欠けた文庫本の本棚から、適当に気に入ったタイトルの本を抜き出して、放課後に読むのが習慣だった。

放課後の図書館で読んで、通学途中のモノレールで読んで、聞き流しても点数が取れる教科の授業中に読んで、毎日最低 1 冊は読んでいたように思う。軟球テニスに励む生徒のように、自分には情熱をもてるものがなかったし、気まぐれに入った部活動にも文化祭執行委員も長くは続かなかったが、小説を読むのは好きだった。

物語の内容は読んだはしから忘れたが、確かに自分とは異なる幾百幾千の人生を生きた。物語を読んでいる間は、つまらない自分の人生から抜け出し、物語で展開される別の人生に溶け込むことができた。自分の人生よりもホンモノらしい物語の主人公に寄り添って、広大な世界を渡り歩いて、多くの謎を解決し、剣や魔法や不思議な力を自在に操り、主人公の目を通して人の生き死にを見つめた。

リアルで起こる出来事は五感で味わうことができるのに、溜め込んだ物語に比べるとどこか色褪せている感じがする。世間一般に感動的なイベントと呼べるものを体験してさえ、正直なところ感情の動きは少ないが、物語を読んでいるときは、手に汗握るし涙が潤む。散歩をしている時、見知らぬ街を旅している時、どこかに物語の風景を重ねている。

そのように単純に楽しんで物語を摂取しているつもりが、その物語に囚われているような気がする。けれど、物語を手繰っていくと、実際のところリアルな体験と紐付いている。

クロスファイア(宮部みゆき)を読んだ中学の朝読書、海辺のカフカ(村上春樹)を読んだツアーバスの車内、新世界より(貴志祐介)を徹夜で一気読みした日、富士山頂まで付いてきたラノベ、暗号解読(サイモン・シン)を読んだヤモリだらけの宮古島の宿、シンガポールの動物園で読んだ Kindle、軟球テニスのぱこんという音と紐付いている小説。

これらの読書体験は確実に五感に紐付いており、やや朧気な物語とセットで覚えている。読書という体験で区切れば、平凡なリアルが色の付いた体験に変わっている。これこそ読書の良い副作用だと思う。洒落た表現をすれば読書が人生の付箋として機能しているとでも言うべきか。

今は冬、冷たい手で読んだ本を思い出す。